楽曲において大切なもの

今回は少し趣向を変えましょう。
別に暑さのせいでおかしくなったわけではないですよ(笑)

僕が楽曲において大切にしているもの。
それは歌詞です。(もちろん歌詞がある場合)

聴くときも歌詞に注目します。
作るときも歌詞にこだわります。
演奏するときも歌詞を読みこんだうえで、演奏でどう表現するかを考えます。

洋楽は? って言われると。
まぁ、わかる範囲で。
さらー、っと。

訳詞も読みますが、ダイレクトに言葉の香りというかニュアンスは伝わってきません。
やはりその言語圏で生活をしたり、文化や慣習を知らなければピンとはこないでしょう。このへんは諦めが肝心です。
だからコテコテの日本人の僕としては日本語にはこだわります(笑)今のところ。

そして僕が日ごろ感じていることの一つに「大胆にアレンジしたものは気にくわない」というものがあります。
全てではないですけどね。

アレンジというのは、コードを変えたりリズムパターンを変えたり、メロディを少し変えてみたり、ということですよ。

楽曲というのは、作る段階で歌詞を書いた人の想いがこめられています。
次に、その想いを表現するのに適しているであろうメロディやコードをつけていきます。
自ら歌う・演奏する場合でも、楽曲提供などで作詞・作曲者が別の場合でも。

この時点でかなり完成されていると思うんです。
だっていい加減に作るわけがないですから。

ある想いがあって、それを最大限に表現するために練りに練っていくわけです。
おそらく他に選択肢はほとんど無いだろう、くらいのところまで頭をしぼってしぼって、練りに練りあげたものを他人がアレンジして原曲を超えることができるのか、って話です(笑)

↑他人が、と書きましたがね。
例外として原曲を作った本人が、ある程度時間が経ったうえでアレンジする、というのはアリだと思います。
“昔と考え方・感じ方が変わった”
“昔はできなかった表現ができるようになった”
“技術が上がった”
等があるからです。
ただし、時を経て本人がアレンジしたからといって良くなるとは限りません。

歌詞をしっかり読み込み、その世界観を最大限に表現しようと思えば
自ずと楽曲の方向性は決まってくるし、
アレンジしようと思ってもそれなりに似たような方向性になってくると思うんです。
もちろん感じ方は人それぞれですよ。個人差があります。

でも差があったとしても
例えば、「雨」というワードに対して小雨なのかどしゃ降りなのか、というような差でしょう。
「寂しい」とか「悲しい」といったワードに対して、祭りのお囃子のようなピーヒャラピーヒャラしたアレンジにすることはないでしょう(笑)

原曲と同じような方向性ならアレンジする意味ないじゃーん、ってなるから
アレンジする側としてはガラッと雰囲気を変えたくなるというのはあるんでしょうけど。

そして、こういう話をすると
「原曲を先に聴いて、そのイメージが強いからアレンジ版が気にくわないだけしょ?」
って言う人もいるんですが
アレンジ版から先に聴いて原曲があることを知ったとしても、やはり原曲のほうが良いなーと感じることが多いです。(あくまで私見です)

人の曲をカバーするときも要注意なんですよ。
以前、歌番組で最近のアイドル?か何かの若い女の子が
山下達郎氏の「クリスマス・イブ」をキャピキャピした感じで楽しげに歌っているのを見て
すげー腹がたちました(笑)

あれは
クリスマスイブに待ち合わせしている、もしくは来てほしいと伝えた想い人が来ないという
寂しい男・モテない?男の心情を歌ったものです。

いまどきギャルがキャピキャピしてどーすんねん、と(笑)

彫刻家ミケランジェロは
「どんな石も内部に彫像を秘めている。それを取り出すのが彫刻家だ。」
というようなことを言っています。
つまり取るべき形はすでに内在している、と。
完成した姿は石が知っている、と。

楽曲も歌詞を書いた時点で、そしてメロディがのった時点で
ある程度曲の形が決まっているのでしょう。
それを“取り出す”ことができたときに素晴らしい曲になるのだと思います。

そしてアレンジやカバーを手がける人は
“取り出した世界観”をもっと大切にしてほしいと思います。